のほほんのブログ

映画と君と

生宣り

今回は、夏の終わりに書いた、私の父の話の続きを書こうと思います。

こじれてしまった親子関係に悩んでいる人、親からの愛を受けることができなかったことで悩んでいる人へのヒントになりますように。


私の父については、私の過去の記事をご覧ください。


まず、現在の私と父の関係ですが、今は別々に暮らしていて、会わなくなってからもう4年が経ちます。

前回の記事で、今後も会う気はないとも書きました。


これは、憎んでいるからではないのです。

私と父にとって、これがベストだと考えたからです。

暴力や抑圧、恐怖があったあの家でまた生活することは、私には辛く、自分の過ちを全て知ってしまった娘と暮らすことは、父にとって苦しいことでしょう。


憎んでいるからではないと書きましたが、当時はもちろん憎んでいました。死んでしまえばいいのにと思った。でも、この憎しみこそが私達を苦しめるんですよね。


負の感情って、それをエネルギーにできる人もいますけど、私は自分が疲れちゃうんです。もったいないじゃないですか。

許すことも、それなりのエネルギーが必要ですが、負の感情を持ち続けるよりはるかにいいと思うんです。


だからといって簡単に許せるものでもなくて、たくさん父のことを考えました。

父は、サラリーマンである自分だけで精一杯だったんです。

朝早く家を出て、夜遅く家に帰る日々。それらを発散する術が、酒や博打、そして女性だった。


前回の記事に書きましたが、私は父を尊敬もしていました。父は努力家でした。


悪い面と良い面、両方知ること。

そんなこんなで、憎しみは消えていきました。

どこかで許さないと、いつまでも終わらないんです。

上から下へ、許して「あげる」のではなくて、対等な立場で、許すんです。上から下へのそれは、自分を上に置くことで自分を納得させているだけで、許しではないから。

自分もまた誰かに日々許されているわけですしね。


ここまでが憎しみからの解放、許しのお話でした。


そしてもう1つ。

私は、残念ながら父からの愛を受けることができなかったと思っています。でも、だからといってどうこうというのはないんです。

親から愛されなかったから〜。と苦しんでいる人は多いと思います。


たしかに、獲得できなかった愛があることは、残念なことかもしれません。

でも私達は、十分な愛をこれから獲得することができます。

誰かからの愛を獲得できなかったらそれでおしまいじゃないです。


父に愛されなかった自分。自信がなくて、長い間死にたい死にたいと思ってました。だらしない恋愛もたくさんした。


不安で何度も同じ話をする私を、嫌な顔一つせず受け止めてくれる友達。

もっと仲良くなりたいと言ってくれる友達。

笑わせてくれる友達。

家に居場所がなかった私に、ネットに居場所をくれた友達。

死にたいと言えば、私の感性は唯一無二で、それがなくなってしまうのは悲しいと言ってくれたどせい。

結婚してくれなくても、私を産むと言ってくれた、22歳の母。


私は十分に愛されてると、やっと気づけたとき、「父に愛されなかった私」という、自分が自分に貼っていたレッテルは消えました。


私が気づくまで、愛をぶつけ続けてくれた大切な人たちには、感謝してもしきれません。


最後に、前回と同じことを言いますが、生きてください。

祈りの語源は、生宣りだといわれています。生きる宣言です。なにも神様にじゃなくていい。共に祈りましょう。